Fujiki Isaac
1985 京都出身
私が生まれ育った場所は、当時自然や田んぼがまだ多く残されているところでした。当時の私には、その全てが美しい唯一無二の世界でした。
そのせいか、私が見て心地よく感じるモチーフは空、植物、動物、水、石など命の有無に関わらず自然の物が多いことに気がつきます。
自然は、人がどうしてもゼロから作る事の出来ないものであり、どこからどう来たのかと思わせるものばかりです。そこには、私には見尽くすことの出来ない美と、偉大な業の源が広がっており、何か大きな存在、人が人の手では創る事の出来ない本物の真理、命が存在していると感じるのです。
しかし、私の中にはその道に反抗し吠えたける獅子のような存在が、牙を剥き襲い掛かる機会を狙っており、自然そのものをありのまま表現する代わりに、よく見せたい、こうあるべきだという自己中心的な思いを起こさせるのです。いつも迷い自分の愚かさを弱さを哀れな姿を、まるで何も着ていない恥の姿を表そうとするのです。
そんな中でも、私の目に見えるものと、見尽くすことのできない複雑なこの世界を行き来しながら、それでも美しくありたいと思う私が、尊敬する偉大な方を求め追いかけてこの素晴らしい世界を油絵を用いて表現しています。
私が生まれ育った場所は、当時自然や田んぼがまだ多く残されているところでした。当時の私には、その全てが美しい唯一無二の世界でした。
そのせいか、私が見て心地よく感じるモチーフは空、植物、動物、水、石など命の有無に関わらず自然の物が多いことに気がつきます。
自然は、人がどうしてもゼロから作る事の出来ないものであり、どこからどう来たのかと思わせるものばかりです。そこには、私には見尽くすことの出来ない美と、偉大な業の源が広がっており、何か大きな存在、人が人の手では創る事の出来ない本物の真理、命が存在していると感じるのです。
しかし、私の中にはその道に反抗し吠えたける獅子のような存在が、牙を剥き襲い掛かる機会を狙っており、自然そのものをありのまま表現する代わりに、よく見せたい、こうあるべきだという自己中心的な思いを起こさせるのです。いつも迷い自分の愚かさを弱さを哀れな姿を、まるで何も着ていない恥の姿を表そうとするのです。
そんな中でも、私の目に見えるものと、見尽くすことのできない複雑なこの世界を行き来しながら、それでも美しくありたいと思う私が、尊敬する偉大な方を求め追いかけてこの素晴らしい世界を油絵を用いて表現しています。